4 中立宣言の影響
中立宣言後も、コスタリカにおいて親米政治家を中心とする反共産主義者が政治的に大きな影響力を持っていたことは、彼らがこの宣言に基づく憲法改正案を議会で何度と無く廃案に追い込んだことに現われている。また、度重なる国境紛争等の影響によるニカラグアの「非民主主義的」なイメージの普及を背景に、一部のコスタリカ民衆が反ニカラグア感情を強く持ち、ニカラグア大使館に投石する事件を起こしたり、国民教育者連盟のような同業者組合や企業団体が、ニカラグアとの外交関係を断絶するように訴え、中立政策を転換して国の軍備を増強するよう政府に提訴することもあった[35]。
このように、コスタリカ国内の反共運動が依然活発であり続けたことは、米国がモンヘの中立宣言に一定の理解を示しながらも、反共産主義と反ニカラグアに立脚した対外強硬策自体を実質的に変更しなかったこととも大きく関っている。レーガン政権は、中立宣言以後もホンジュラスの軍事基地とその周辺に三軍を駐留させコントラ勢力を経済的に支援し、カリブ開発計画やキッシンジャー報告に基づく戦略的外交を通じてカリブ・中米地域における覇権を強化していた。この一環として、レーガンがコスタリカ政府に対して経済援助と引き換えに米国の基本的な経済、政治、安全保障、外交上の諸目的を支持するように要請したため、モンヘも正面からこれを拒絶する事はできなかった。1983年にはコスタリカのGDPのおよそ10%にあたる2億400万ドルが米国から経済支援として与えられる等、米国の援助によってコスタリカ経済が1984年までに急速に回復していったことは、モンヘが米国の要請を大筋で受け入れたことを意味している[36]。ただし、モンヘは、グレナダ侵攻のような米国の軍事行動や中米における軍事訓練に関しては明確な反対を表明する等、軍事や戦争に関係する問題については強い拒否反応を示し続けた。すなわち、政治・イデオロギー的には米国を支援するが、軍事行動は認めないという中立宣言の行動を実践していたわけである[37]。
このように強力な米国政府の政治経済的圧力にもかかわらず、もともと反共的であるはずのコスタリカ民衆がモンヘの中立政策に共鳴していたことは非常に興味深い。世論調査の結果によれば、1984年3月には全人口の76%が、また同年11月には60%が中立政策を支持していたとされる[38]。内政においては、ストライキ、道路封鎖、休業等といった形で民衆の抵抗を受けていたモンヘが、不思議なことに中立政策については常に多くの人々に支持され続けたのだった[39]。これは中立推進派の大衆メディアを通じて行った宣伝が、反軍国・平和主義的傾向の強い人々の国民意識を巧妙に刺激し、その意識をより高揚させつつ、中立政策の支持基盤を拡大することに成功した結果であると考えられる。
1960年代以降、コスタリカ社会に根を張り始めた大衆新聞やラジオ・テレビ等の新メディアは、基本的に国家よりの立場をとり、保守的な社会的価値観を再生することに貢献しており、概して政府が人々の国民意識や社会意識を操作する上で最も重要な共謀者となっていた[40]。換言すれば、大衆メディアは政治家にとって自分たちの政治勢力の正当性を社会的に訴える有力な手段であり、その中でも新聞は日刊のベストセラー文学という側面から最も有力な情報伝達手段であったといえよう。1980年代初頭におけるコスタリカの識字率が、他の中米・カリブ地域とは比較にならないほど圧倒的に高い89%であったことは、社会における新聞・雑誌等の文字メディアの影響力の強さを示唆している[41]。
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| [35] |
| Prensa Libre, 1985年6月4日, p.7 |
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| [36] |
| Marc Edelman, op.
cit., pp.40-41. |
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| [38] |
| Miguel Gómez, “La opinión nacional y la neutralidad de Costa Rica “(1984年11月14日コスタリカのサンホセ市で開催された国際会議「コスタリカの中立とヨーロッパの中立:その類似点と相違点」において提出された報告)。 |
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| [39] |
| Sojo, op. cit., p.137. |
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| [40] |
| Maria Pérez Iglesias, “Democracia,
libertad de expresión y medios
de comunicación en Costa
Rica”. Costa
Rica: La democracia inconclusa, Manuel Rojas
Bolaños (et al.), San José: Editorial Departamento Ecuménico de
Investigaciones (DEI),1989, pp.135, 154-155. |
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| [41] |
| Marc Edelman, op,
cit., p.39 |
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例えば、コスタリカの有力大衆新聞の一つである『ナシオン』では、中立宣言のセレモニー中の荘厳な雰囲気や、これを支持する学生たちが国旗を掲げて行進する様子などが写真つきで詳細に伝えられ、「コスタリカは精神的強国である、なぜならば民衆が意志や道徳の力に基づき、常識に対する強い信仰を実践しているからだ」とする中立宣言の一部が抜粋された[42]。これは、間違いなく読者の国民意識を煽動する国民主義的内容であったが、それから2日後の同紙上で、モンヘの中立宣言がコスタリカの国際的なイメージを改善する目的のために行われた実質を伴わない「化粧」に過ぎないとはげしく批判されている点を考慮すると、この新聞において中立宣言が必ずしも一貫して高く評価されていないことがわかる[43]。この例に見られるように、中立宣言に関する大衆新聞の内容は新聞社の政治的立場とはあまり関係なく、ほぼ一様にモンヘ政権内の中立派と反中立派の対立を反映していたため、その評価は混乱していた。
これに対して、中立宣言に基づく憲法改正を狙うモンヘは、すぐに新聞・冊子等を通じて民衆に中立政策の正当性をより強く、明確に伝えるため、積極的な情報戦略を行い始めた。例えば、国民解放党内の中立支持派の青年たちが連名でほぼ1ページ分の新聞広告を出し、モンヘ大統領をコスタリカ民衆の歴史と伝統についての生得の目利きであり、中立を宣言することで国民魂を見出した「平和の戦士」であると称賛した[44]。また、時折新聞1ページを割いて、スウェーデン、フランス、オーストラリア、スペイン、ジャマイカ、アルゼンチン等の国家首脳、そしてローマ教皇が中立を指示していることを、各人の顔写真や中立への称賛の言葉とともに掲載している。このときに掲載されたモンヘの顔写真が各国首脳や教皇の顔写真より高い位置におかれていることは、モンヘの偉大さを無意識に読者に植え付ける心理的効果を狙ったものであろう。
その中で、スウェーデン首相のオロフ・パルムは、暴力と抑圧が続いてきた中米において「我々(スウェーデン人)はコスタリカの平和への使命と反軍国主義的態度に感嘆している」と述べている[45]。このような西欧の「中立民主国家」からの称賛の言葉は、もともと西欧民主主義に強い憧れを持つコスタリカ民衆のナショナリズムを刺激し、再びコスタリカの中立と欧州の中立の同一視する効果を持ったに違いない。
また、教皇ヨハネ・パウロ2世も次のように述べている。
「真の満足をもって、汝らの町にこれほどまでに根付いた愛と平和を、そして国の常設機関としての軍隊の存在を憲法上禁止するに至ったことを、評価したい。また、非常に意義深いことは、中央アメリカ地域における深刻な紛争に対して、コスタリカが中立を維持する決定を下したことである。主も、親愛なる中央アメリカの民衆にとって至上の切望である平和に貢献する汝ら平和的国民の美しい見本をお慶びになるであろう」[46]。
この言葉は、ほとんどがカトリック信者であるコスタリカ民衆に対し、中立政策が宗教的にも重要な意味を持つことを強く訴えかけるものであった。
1984年のメーデーには、モンヘが立法議会で後に新聞記事や冊子という形で人々の目にするところとなる『我々は自由と平和を守ってきた』という題の演説を行った。この中で彼は、国内だけではなく、国際的なレヴェルでコスタリカの中立と平和が評価されているとした上で、その栄光はコスタリカ国民が他国民とは異なった独自性を持っているからだとし、次のように述べている。
「我々の国民的独自性を形成している『相違』は昔から存在している。それは歴史に根付き、共和国の父なる創設者たちの業績の中で誕生し、発展してきたものであり、教育や民主主義的な政治生活体験を介しての安定的で不断の努力の結果なのである。すなわち、その相違は我々の農民の所産なのだ…」[47]。
これらの記事に代表されているように、モンヘはコスタリカの「中立」が世界中の人々に称賛されるべき優れた国民文化の賜物であるというイメージを強調すると同時に、国民のために尽力したとされる過去の大統領の偉大さを称え、自分自身がその栄光の歴史の時間的延長線上にあることを示したのであった。このように、1984年前半期の中立派の宣伝の特徴は、「中立」の国際性と国民性に対する徹底的な美辞麗句であると言って良い。また、この時期の新聞等に見られるモンヘの中立についての議論の特徴は、「非武装中立」による平和の重要性に集中しており、反共的な内容を含む「積極的中立」についての議論がほとんど見られなくなった点である。モンヘは、サンディニスタ軍との国境紛争に伴って高まりつつあった反共派の再武装化要求に対して、「コスタリカとニカラグアの間の紛争の解決は戦争ではあり得ない」ことや、米国軍隊の受け入れや、ニカラグアとの決裂はあり得ない選択であることを明言する等、あくまでも人々の反戦意識に訴えることで中立への支持を維持しようと試みたのであった[48]。加えて、新聞や雑誌などの大株主がしばしばテレビやラジオの大株主も兼ねているという事実は、文字メディアの内容が基本的にはテレビやラジオなどの大衆メディアにも反映される可能性を強く示唆している[49]。
以上のように、一連の中立派の情報操作と中立政策の反戦・平和的イメージ作りが、多くの人々を中立支持派に変えたと思われる。そしてモンヘの中立政策に対する大衆の支持が最高潮に達したことを表す歴史的事件が、1984年5月15日の「平和のための行進」であった。これは、大学生・中学生連盟や国民解放等青年部等の若年層が中心となり、これにモンヘ大統領、国民解放党の創設者であり、多くのコスタリカ人に尊敬されていたホセ・フィゲーレス元大統領、コスタリカ大学学長フェルナンド・ドゥラン、中立派議員、そして一般市民たちが参加したおよそ5万人のデモ行進であった。立法議会議長ベルナル・ヒメネスをはじめとする多くの有力政治家に率いられ中央公園を出発した第1縦隊と、ドゥランに率いられコスタリカ大学を出発した第2縦隊は、国旗を掲げてサンホセ市内を練り歩いた後、国民公園内の国民記念碑のもとに集結し、そこで式典が行われた[50]。
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| [42] |
| Marc Edelman, op,
cit., p.39. |
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| [43] |
| Nación, 1983年11月20日, p.6A. |
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| [44] |
| República, 1983年11月18日, p.11. |
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| [45] |
| República, 1984年5月6日, p.5. |
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| [46] |
| Prensa Libre, 1984年5月15日, p.3. |
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| [47] |
| Luis Alberto Monge, Hemos salvado
la libertad y la paz, San José: Secretaría
de Infomación y Comunicación,
Presidencia de la República, 1984, pp.21-22. |
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| [48] |
| República, 1984年5月11日, p.3;Prensa Libre, 1984年5月5日, p.11. |
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| [49] |
| Maria Pérez Iglesias, op,
cit., pp.164-166. |
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| [50] |
| Nación, 1984年5月1 6日, p.8. |
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まず、参加者全員で国家を合唱した後、コスタリカ大学学生連盟の代表が、「歴史を通じてコスタリカが常に平和を愛する国であった」として中立を正当化すると、これに応える形で大学長のドゥランは、学生を代表してモンヘ大統領とその中立宣言を支持すると演説した。また、ロマン・アリエタ大司教は、モンヘに期待するという趣旨の教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉を伝えた後、自身もコスタリカ国民が自由意志によって軍隊を廃止し、中立宣言を行ったとしてこれを称賛した[51]。そして式典の閉会にあたっては、1948〜1949年の改革の立役者であり、コスタリカの「平和主義」を象徴する国民的英雄であるホセ・フィゲーレス元大統領が演説を行った[52]。フィゲーレスは、コスタリカの平和主義は1948年の内戦とその結果として制定された新憲法における軍隊の撤廃以来、野蛮ではなく、文明によって維持されてきたとし、モンヘの中立宣言は軍隊撤廃に由来する歴史的必然であると述べた。そして、「モンヘ大統領の中立宣言は、交渉の力に対する信頼、そして武器の力に対する拒絶といった我々の国民文化の一部を形作っている…」と述べ、だからこそ「コスタリカは中米やその他の世界の大混乱にもかかわらず、文化的な生活を送ることができる」のだと結論しているのである[53]。
このように「平和のための行進」は多くの政治的、社会的、宗教的有力者によって指導され、都市を中心とする幅広い社会層に支持された超階級的な「国民的」式典であったことがわかる。少なくとも新聞記事の描写を見る限り、この行進の参加者は「中立」そのものを祝ったと言うよりは、むしろそれを生み出した「偉大な国民文化」を祝っていたと言えよう。すなわち、これはモンヘから発せられた国民主義的な中立のイメージが民衆の意識に吸収され、一種の大衆ナショナリズムを高揚させたことを意味している(ただし、リベラル時代以来、その存在が公的な「国民史」上から抹殺されていた先住民や黒人にとって、この中立政策がいかなる社会的、精神的変化をもたらしたかについては、今後の研究を待たなければならない)。
その翌日の新聞上で、反中立派が「平和のための行進」を批判する一方で、コスタリカ人の心には数世紀もの間中立的な国民感情が宿り続けているというモンヘの議論を肯定し、このデモがコスタリカの良き市民の不安から生まれたものだとする等、運動に多大な理解を示している点は興味深い[54]。これらの言葉は、まさに反中立派が平和行進を決して無視できない「国民」的運動と認識しているからこそ発せられた譲歩的表現であると思われる。こうして、モンヘの中立は、実際には歴史的根拠を持たなかったにもかかわらず、「伝統的な」コスタリカ国民文化の一部として幅広い階層の人々に受容されるようになったのである。
この平和行進で中立に関する国内的支援を確認したモンヘは、その翌月から本格的な欧州歴訪を行い、今度はコスタリカの中立に対する国際的な合意を取り付けるために奔走した[55]。こうして、フランスを中心とする欧州諸国はコンタドーラ・グループと共にモンヘの中立政策を一層高く評価するようになり、積極的に中米問題の解決のために介入するようになったが、コスタリカとニカラグアの間の度重なる政治的衝突が障害となり、その調停工作は必ずしも輝かしい成果を収めることが出来なかった。しかしながら、モンヘの中立宣言に刺激されて、欧州、第三世界諸国、国連が中米紛争の解決の努力を加速化していったことは事実である。これらの国々にとって、モンヘの中立宣言を評価し、支持することは、米国の中米介入に対して抱いていた不満を外交的に表現する手段でもあったのだ。
フランスの有力紙『ル・モンド・ディプロマティック』がモンヘの中立宣言を「民主主義と平和のために不可欠な貢献」と称したこと、オーストリア外務省が学生や市民向けにモンヘの中立宣言に関するパンフレットを作成したこと、また当時の国連事務総長デクエヤルがコスタリカの中立を世界の「平和の手本」であると称賛したこと等は、その好例である[56]。こうしてモンヘ大統領は、公報上で「コスタリカ民衆に成り代わって国民文化の本質的な徳、すなわち民主主義と密接に結びついた温和さと他人の権利に対する深い尊敬を具現化した人物」と呼ばれるに至ったのである[57]。
このようにコスタリカの「中立」が国際的に認知されたことが、国内の好戦派のみならず米国やニカラグアの直接軍事行動を牽制する効果を持ったのであり、またその結果、このような国際情勢を無視できなくなった米国が、1984年9月、この中立を正式に認知するに至ったのである[58]。こうして、中米紛争の更なる悪化は抑止されたのであり、後にモンヘを継いだ同じ国民解放党のオスカル・アリアス大統領が、モンヘの中立主義をさらに発展させながら、中米諸国間の和平を実現することに一役買うことになった。確かに、モンヘの「中立」は当時の国際的、国内的危機を解決するための現実的な上からの政治政策として誕生したものであった。しかしながら、反戦と平和を前面に打ち出したモンヘのコスタリカ国民文化論を通じて、結果的にこの「中立」が多くのコスタリカ人にとって誇らしい国民文化の一部として認識されるようになったことは、この国の人々の類い希なナショナリズムの強力さを証明していると言えよう。
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| [51] |
| Prensa Libre, 1984年5月16日, p.9. |
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| [52] |
ホセ・フィゲーレスは、その妻であり、現在でも世界各地で「コスタリカの平和主義」の意義について積極的に講演活動をしているカレン・オルセン女史と共に、長らくコスタリカにおける「民主主義」と「平和主義」のシンボルとなっていた。二人の息子であるホセ=マリア・フィゲーレスもその人気を継承し、一九九〇年代に大統領を務めたほどである。しかしながら、近年、コスタリカの「民主主義」神話が崩壊し、歴代の大統領が次々と不正献金などで逮捕される事態に至り、その過程でホセ=マリア・フィゲーレスも憲法違反による逮捕命令が下された。しかしながら、彼はこれに応じず、海外で逃亡生活を送っている。このスキャンダルは、これまで表面的には民主的に見えたコスタリ
カ政治の深刻な構造的欠陥から表出したものであって、大統領経験者だけでなく官僚の中からも逮捕者が相次いでいる。こうした現状下において、コスタリカ市民の政治不信は高まっている。 |
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| [53] |
| Ibid., and Nación,
1984年5月16日, p.8A. |
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| [54] |
| Nación, 1984年5月17日, p.14A. |
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| [55] |
| Erika Gólcher, “Costa Rica en el
mundo: Lineamientos de su política exterior.
1982-1988”, Historia de CostaRica en el sigio ]],San José: Editorial Porvenir, 1991,
p.247. |
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| [56] |
| Armando Vargas Araya, La
neutralidad y la paz de Costa Rica, San José: Imperenta Nacional: Secretaría de Información y comunicación, 1984,
pp.11, 15. |
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| [57] |
| Costa Rica y Luis Alberto
Monge(モンヘ大統領の功績を記念して政府が発行した小冊子。著者は明記されていない), 1984, p.3. |
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| [58] |
| Armando Vargas Araya, op. cit.,
pp.12-13. |
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