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2 モンへ大統領の直面した問題
コスタリカがまさに既述の外交的二者択一を迫られていた1982年2月、国民解放党のルイス=アルベルト・モンヘが新大統領に選出された。当初彼は前節で説明された「三原則」に基づいた外交を踏襲するとしたが、現実には米国との緊密な関係をさらに発展させ、ニカラグア政府と敵対する道を選択せざるを得なかった。モンへ政権が親米・反共主義の立場を取らなければならなかった理由は、主に次の2点にある。
まず第1点として、コスタリカ経済が危機的状況にあったことが挙げられる。2つの石油危機の影響による世界経済の混乱を背景に、コーヒー価格の急落、石油価格の高騰に加え、コスタリカ製品が多く輸出されていた中米共同市場が紛争によって崩壊の危機に立たされたことは、コスタリカにとって大きな経済的打撃であった。GDPは1981、82年に前年度比でそれぞれ2.4%、7.3%のマイナス成長を記録し、これに伴ってGNP比の対外負債返済額の割合も増大して、1976年の26%から1980年には44%、そして1981年には155%にまで上昇したのである[10]。こうした不景気のため、1979〜1981年の失業率は平均9%にまで上昇し、1982年末までにはインフレ率も前年度比で92%上昇して給与の支払いが凍結される等、深刻な社会不安に襲われていた[11]。この危機的状況を打破するためには、第一次大戦以来の最大の投資国である米国や、国際金融機関からの財政援助が不可欠であった。当時の中央銀行取締役は、国の安定は対外的要素に依存しており、それを維持するためにはIMFやAIDのドルが必要だとし、「もしそうでなければ(国家の)すべてのシステムが崩壊してしまう…」と本音を漏らしている[12]。このようにモンへ政府は、米国から最大限の経済援助を引き出すため、レーガンの唱える反共産主義に荷担し、領土内での米軍の活動を黙認して、ニカラグアと対立せざるを得ない状況に置かれていたのである。だが、この事実は大衆新聞等を通じて隠蔽され、国内でのコントラ活動は、全て「ニカラグアのどこかで」起こった事件として報道されたのである[13]。
第2点として、コスタリカ国内において反共産主義運動が高まったことが挙げられる。既述の通り、1949年以来のコスタリカにおいては概して「社会悪」としての「共産主義」という言葉が、「社会善」としての「民主主義」の対立概念として用いられてきた。このような社会的背景があったからこそ、大衆メディアに掲載された反共・反サンディニスタ記事は、国内の親米派や保守派の反共主義を再燃させることになったのである。反共派はコスタリカとニカラグアの国家の性格を、民主主義対全体主義、また市民政治対軍人専横政治という形で対立的に描き、人々のサンディニスタへの嫌悪感を煽っていった[14]。さらに、1982年5月のサン・ファン川をめぐる両国間との国境紛争は、コスタリカ反共派にとって彼等の思想や運動の正当性を主張する絶好の機会を与えることになり、サンディニスタを「侵略者」や「暗殺者」と非難する新聞記事が氾濫した。これらの反共運動の中心的人物であり、モンへ政権の初代外務大臣であったフェルナンド・ボリオは、「マルクス・レーニン主義の軍人が政権にいる間は、決して民主主義的解決は起こり得ない」と主張して、公然とサンディニスタ批判を繰り返したのである[15]。
この反共運動を、当初多くの政治家が支持していたことは驚くべきことではない。なぜなら、彼らは大企業家と結びながら共産主義からの「国民の防衛」の議論を展開し、生活状況の悪化を不満として頻発していた民衆の抗議運動から社会的正当性を剥奪しようとしていたからである[16]。すなわち、彼らは、民衆の反政府運動を対共産勢力のために絶対不可欠なコスタリカ国家の安定や国民の結束に対する脅威であると位置づけ、これをサンディニスタ政権やその協力者と手を結んだ非国民的行為であると性格づけたのである[17]。
このような意図は、政権当初のモンへの言葉からも窺える。彼は、当初からメディアを通じた大衆の意識操作を重要視しており、1982年に自ら創設した情報通信局を中心に、政府側の見解を様々な形で大衆メディアに流す努力をしていた。例えば、モンヘは、社会経済状況の向上を目指して行われている民衆のデモ、ストライキ等への参加者がコスタリカの民主主義を脅かす共産主義の共謀者になっていると述べた上で、労働者達に対して「共産主義の反愛国的な策略に荷担しないように…」と訴えている[18]。これは明らかに経済的混乱に対して起こった民衆の政府批判を反らし、その混乱の原因を共産主義に求める論理のすり替えに他ならない。また、モンへは、全ての社会勢力が「国民的合意を確立するために国旗の下に」集結することが社会的混乱を回避する道だとも主張し、その合意は、経済諸セクター間の協調や労働者・雇用者間の協力関係として具現化されると主張する[19]。このようにモンへは、民衆の反共意識を刺激し、国民統合や民主主義の維持という大義名分を振りかざしつつ、彼らの国家に対する政治・経済的要求や階級闘争を巧妙に退けていたのである。
これらの点を考慮するならば、明らかにモンへはボリオ外相に代表される政権内の反共閣僚と共同歩調をとり得る立場にあった。ところが、モンへはすぐに永世中立国家の実現に専心し、ボリオ外相を中心とする反共産主義グループと激しく対立するようになる。モンヘが中立政策を推進した最大の要因は、反共・反ニカラグア勢力の過激化によって国内外の政治・社会状況が動揺することへの危惧であった。当時の主要な大衆新聞上では、武力行使による問題解決や自由主義の保護者としての合衆国の介入を正当化する論調が目立つようになり、大学を中心とした親ニカラグア・反レーガン派と対立するようになっていった[20]。「国民の防衛」を唱えて民衆の反政府運動を鎮めようとしていたモンヘが、人々の国民アイデンティティに決定的な亀裂を生じさせ、国内を分裂状態にする可能性のある新たな政治・社会闘争の火種を消そうとしたことは十分に理解しうる。もし、サンディニスタと直接交戦しないにしても、国内の反共勢力が更に高まり、コスタリカ政府が公然と米国軍やコントラを支援することになれば、サンディニスタ軍がコスタリカに侵攻する危険を孕んでいた。また、いかなる形にせよ、コスタリカが中米紛争の渦中にあるという否定的イメージが国際的に流布するならば、観光や貿易を中心とする将来の国内商業に多大な悪影響を及ぼすだろうし、国家経済の復興のために不可欠な海外投資が鈍化することは不可避となろう[21]。モンヘ政府がしばしば国際会議等で「コスタリカは中米問題の一部ではないが、中米はコスタリカの諸問題の一部である」と繰り返し述べているのは、中米紛争から切り離された健全な国民国家像を国際社会に定着させたかったからに他ならない。
モンヘが、急進的に中立政策の実現を図るようになったのは、ボリオら反共派を中心として1982年10月に結成された「平和と民主主義のためのフォーラム」(FPD)がニカラグアとの和解に失敗した1983年4月以降のことであった。FPDは周辺のラテンアメリカ諸国や米国と会合し、自分たちの手で中米紛争を解決しようとしたが、サンディニスタ政府は米国の介入を理由にこれへの出席を拒み、逆に米国の介入に対する拒否で一致するコンタドーラ・グループに接近していった[22]。1983年1月にマナグアで開かれた非同盟諸国会議を機に、メキシコ、ベネズエラ、コロンビア、パナマによって結成されたコンタドーラ・グループは、ラテンアメリカの問題はラテンアメリカ諸国の手によって解決されるべきだと強く訴えたため、中米紛争は米国対ソ連といった東西対立に加え、米ソ対コンタドーラ・グループという南北対立の様相も帯びるようになった。
この状況下において重要なことは、欧州経済共同体(EEC)がこのコンタドーラ・グループのリーダーシップを支持したことである[23]。EECは、米国の経済制裁発動後のニカラグアに対し約2億米ドルもの借款を行い、ニカラグアの全輸出品の46%を受け入れる市場を提供する等、米国とは異なった独自の外交を展開し、間接的に中米紛争に関与していた。そのEECに支持されたコンタドーラ・グループはコスタリカ・ニカラグア両国に紛争調停案を提示するのであるが、FPD勢力が未だ根強いモンヘ政府は、自国に不利であることなどを理由にこの調停案を拒否した。この態度はすぐにコンタドーラ・グループ側から批判されるに至り、特にメキシコの新聞はコスタリカが中米問題の解決の障害となっていると批判し、ニカラグアに好意的な記事を連載した[24]。経済的にも、メキシコやベネズエラはコスタリカにとって米国に次ぐ巨大取引先であったため、この批判はモンヘ政府にとって決して無視できない重荷となっていた[25]。
以上のように、国内的社会不安に加えて、反共派による政治的リーダーシップ確立の失敗、コンタドーラ・グループによるコスタリカ非難等の国際的変化を受けて、モンヘ大統領は、コスタリカ市民や国際世論の眼前で新しい外交姿勢を明示する必要に迫られていた。こうして、彼は「中立」の実現に向けて急速に前進していくことになる。
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| [10] |
| Eliana Franco y Carlos Sojo, Gobierno, empresarios y políticas de ajuste, San José:
FLACSO, 1992, p.156; Rojas,
op. cit., p.45.
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| [11] |
| Sojo, op. cit., p.70. |
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| [13] |
| Patricia
León
y Isabel Ovares, “La Prensa llama a la guerra”
La desinformación de la
prensa en Costa Rica: un grave peligro para la paz,
Heredia: Instituto Costarricense de Estudios
Sociales, 1987,
p.179.
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| [14] |
| Sojo,
op. cit., pp.66-67.
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| [15] |
| República,
1984年3月16日, p.16.
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| [16] |
| Sojo,
op.cit.,p.119.
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| [18] |
| Semanario
Universidad, 1982年12月10日〜1983年1月9日,
pp.7-8.
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| [19] |
| Luis Alberto Monge, Salvaremos para todos la paz, la justicia social y la democracia, discurso
de inauguración del
gobierno de la República, San José:
Imprenta Nacional, 1982, pp.8-9.
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| [20] |
| Patricia León
y Isabel Ovares, op, cit.,
pp.173, 243.
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| [21] |
| Rojas, op. cit.,
pp.112-114
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| [22] |
| Ibid., pp.144-145, 151.
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| [24] |
| Nación,
1983年5月27日, p.15A.
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| [25] |
| コスタリカの全輸入額に占めるメキシコとベネズエラを併せた取引額の割合は、1983年に15.5%、84年に15.4%、85年に14.2%、86年には10%に達しており、この数値は第1位のアメリカ合衆国に次ぐ巨大取引先であったことを示している。(Banco
Central de Costa Rica, Balanza
de Pagos de Costa Rica 1986, San José: BCCR, pp.82-83)
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