コスタリカの中立宣言をめぐる 国際関係と国民意識

―モンヘ大統領の政策を中心に―  

1 モンへ以前のコスタリカ外交と国民意識の概観

 コスタリカにおける国民意識は、1870年に始まるリベラル時代に上からの公定ナショナリズム(国家主導による一種の官製ナショナリズム)として誕生した[2]。リベラル政府は、コーヒーやバナナの輸出業を中心とする資本主義経済システムを整備するために、国家機構の中央集権化や世俗化を行わなければならなかった。そこで政府はそれを円滑に実行するために自らの政治権力を社会的に肯定する必要に迫られ、「国民」という想像上の政治的共同体意識を生み出したのである。この「国民」という概念は、資本主義の発展とともに先鋭化した社会階級や人種の問題を曖昧にし、全ての住民が匿名の一国民として共通の文化・社会を共有するという一種の連帯感を現出するため、改革を進める国家にとって非常に都合の良いものであった。このため、政府は様々な国民的シンボルを創出する一方、徹底的な国民主義的教育を通じて上からのナショナリズムを大衆の意識の中に刷り込んだのである(ただし、ここで言う大衆とは基本的に大多数派である白人系住民のことを指しており、全人口の3%しか存在しない先住民や黒人移民はこの「国民」という概念からは除外された)[3]

 このような上からのナショナリズムは、19201940年代の社会・共産主義勢力の膨張によって大きく動揺したが、1948年の内戦によってホセ・フィゲーレス率いる社会民主党勢力がリベラル政府を打倒した後、一層コスタリカ社会に定着することになった。内戦以降のコスタリカ政府は、基本的に最低限の社会福祉や民主的議会制を人々に保障する等の内政改革を行い、その一方で国家権力にとって脅威となる共産主義勢力を排除しながら、リベラル時代に創出された国民意識をより組織化された教育システムや大衆メディアを通じて強化し、この意識を「大衆化」していくのである[4]。その過程で特に注目すべきことは、米国をモデルとする西欧民主主義的な価値観が国民アイデンティティの重要な一部を構成するようになったことである[5]。これは、当時のコスタリカ政府にとって内戦前後の国家経済の危機を乗り切るためには米国の資金援助が不可欠であり、そのために徹底的な反共産主義運動を展開していた米国の価値観やイデオロギーを肯定しなくてはならないという政治的状況を反映したものであった。

 また、フィゲーレス政権が、1949年憲法において法的に常備軍を廃止したことを光栄ある「民主主義」の象徴として絶えず人々の意識に刷り込んだ結果、コスタリカ民衆の国民アイデンティティに反軍国主義や平和主義という「特色」が刻み込まれることになった[6]。現実には、軽武装ながら国軍の代用的役割を果たした警察組織と、米国を中心とする反共集団防衛条約である米州相互援助条約(リオ条約)への加盟に立脚した「非武装」であったが、国家による情報操作もあって、多くのコスタリカ人は自分達を他の中米諸国とは異なった平和的国民だと確信するようになっていた。この意識は、既述の西欧民主主義意識とあいまって政治にも反映され、後の平和大学の創設や世界人権会議の招致に見られるように、その後のコスタリカ外交の基礎ともなった。

 さらに、1960年以降になると、中米共同市場の成功等による国家経済の安定と急激に進む政治・経済的国際化を背景に、コスタリカ外交に変化が起き始める。特に、国連等の国際機構においてAALA諸国や非同盟諸国の活躍が顕著になると、コスタリカ政府も第三世界との協力関係を重視するようになった。また、1970年〜1974年に国交を持つ国の数が45から81に急増し、その中に旧ソヴィエト連邦やその他の東欧諸国が含まれていることは、この時期のコスタリカ人が米国一辺倒の外交を見直し、多彩な国際関係を模索したことを示している[7]

 こうして、ニカラグア革命の前夜までに、コスタリカの国民アイデンティティには、@西欧(特に米国)民主主義への信奉、A反軍国主義、B第三世界との連帯意識、が混在していたが、この三原則を政治外交的に実践する上で、西欧的な「民主主義」の価値観を受け入れ、欧米諸国との親交を深めることと、欧米世界に対立的な「第三世界」勢力と共同歩調をとることが時折矛盾をきたしたことは言うまでもない[8]。そこでコスタリカ政府は、自国が政治・経済的に大きく依存している米国のリーダーシップを脅かすような第三世界の運動へは参加しないという方法をとった。積極的に第三世界の一員として活動しようとはせず、時に「非同盟諸国とも同盟しない」という孤立主義的外交によって第三勢力と一線を画すことで、コスタリカ政府は米国への体面を守っていたのである。

 しかしながら、このように曖昧なコスタリカ人の国民アイデンティティやそれを反映する形で国家が展開した外交は、1979年を境に大きな転機を迫られることになる。ニカラグア革命に加え、旧ソ連軍のアフガニスタン侵攻、イラン革命、グレナダの政変等を背景に、米国レーガン政権がソ連・共産主義陣営との徹底的対決を打ち出したからである。レーガンは、急激にソ連・キューバとの関係を親密化させていたサンディニスタ政権下のニカラグアや、エルサルバドルにおける共産ゲリラの活動に危機感を募らせていった。特にサンディニスタ政府は歴史的に自国に対して政治介入を繰り返した米国に対する反感から、しばしば反米的な態度を露わにしたため、レーガン政府はこの政権に対して軍事的圧力や経済制裁を加えた[9]。以後、ニカラグア・コントラを支援してサンディニスタ革命政権の打倒を謀り、エルサルバドルの親米的右翼軍事勢力に経済的援助を行うという形で、米国政府は中米地域の政治・社会問題に深く介入することになる。

 このようなレーガンの強硬外交に伴う米国の中米政策の大きな転換は、コスタリカ政府の外交的立場を微妙なものとした。コスタリカ政府は、国の政治・経済にとって最も重要な国であり、「民主主義」のモデルであった米国と、同じ中米の隣国であり、共産主義諸国と友好を深めていたニカラグアの間で板挟みの状態に置かれることになったのである。米ソ対立が深刻化していた中米において、コスタリカの政府と民衆は、どちらの味方で、どちらの敵であるかという二者択一を行わなければならなかったのである。

 

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[2]
この問題に関しては、小澤卓也「白色化された国民−コスタリカにおける国民イメージの創設」『ラテンアメリカからの問いかけ−ラス・カサス、植民地支配からグローバリゼーションまで』、人文書院、2000216-237頁、を参照されたい。
 
[3]
Steven Palmer, “ A Liberal Discipline: Inventing Nations in Guatemala and Costa Rica, 1870-1900”. (Ph.D. Dissertation, Columbia University, 1990) に詳細に記述。
 
[4]
ホセ・フィゲーレスは、学生時代から筋金入りの反共主義者として知られ、一九四九年憲法の制定後も、長らく共産党を非合法化する決定を下した。
 
[5]
拙稿「コスタリカにおける<国民>意識と<民主主義>について(18701949年)」、『立命館文学』第547号、199693-99頁。
 
[6]
Francisco Rojas, Costa Rica: política exterior y crisis centroamericana, Heredia: Universidad Nacional, Escuela de Relaciones Internacionales, 1990, p.21.
 
[7]
Ibid., p.141.
 
[8]
Calros Sojo, Costa Rica: política exterior y sandinismo, San José: FLACSO, 1991, pp.76-78.
 
[9]
Boris Yopo, “La política exterior de Nicaragua: principios y pragmatismo en un contexto internacional adverso,” América Latina y la crisis centroamericana: en busca de una solución regional, programa centroamericano de investigación, San José: Secretario General del CSUCA, 1990, p.54.

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