Dr. Ozawa's Seminar

2008年10月更新


コスタリカの中立宣言をめぐる 国際関係と国民意識 

―モンヘ大統領の政策を中心に―

3 中立宣言とその内容

 モンヘの「中立」の基礎は、既に1950年代の初頭に国際労働機構の役員としてスイスのジュネーヴに滞在した時代に形作られていた。1962年に発表された論文『非同盟諸国の集団』の中で、モンヘはラテンアメリカ諸国が歴史的、文化的に西欧諸国と強く結び付いており、そこからもたらされた自由と人間の尊厳の原則である「民主主義」を守るために共産主義を退けるべきだとしている。また、スイスの反ナチス・ファシズム闘争を例に挙げて、中立国であっても政治・道徳・イデオロギー的に西欧を支持することは正当であるとした[26]。この欧米的民主主義の伝統を基礎とした「反共的中立主義」思想を基礎に、19831117日、モンヘは国民劇場で行われた式典において正式に中立を宣言するのである。その中立主義の基本的特徴は、「永世中立」、「積極的中立」、「非武装中立」の三点であるが、特に後者の二つの概念がコスタリカの中立の大きな特色である。  

 

[26]
Rojas, op. cit., pp.122-123.

 「積極的中立」とは、コスタリカが戦争行為に対しては中立であるが、イデオロギーや政治論争において中立を意味しないことを表した言葉である。このことは宣言の中で、「コスタリカは西欧民主主義国家と分かち合ってきた政治的・社会的概念への忠誠を再肯定する」と明言されていることにも如実に現れている[27]。つまり、コスタリカはイデオロギー的に西欧民主主義を信奉するが、だからといって共産主義を信奉し、共産主義諸国との実際的な政治紛争や戦闘行為には巻き込まれたくないとするコスタリカの微妙な立場を反映したものである。しかし、この立場は、イデオロギーが米ソ両陣営にとって敵と味方を判別する重要な要素となっていたこの時代において、コスタリカが米国側に立つことを示しているに他ならない。  

 

[27]
Luis Alberto Monge, La neutralidad de Costa Rica, San José: Imprenta Nacional, 1984, p.20.  

 他方で、「非武装中立」は、コスタリカに広く普及した反軍国主義を背景に、中米紛争に伴う軍事衝突に巻き込まれることを回避するために宣言されたものである。これによれば、コスタリカ国家の安全は、自国の軍隊によってではなく、「人々の自由意志、国際法の規範、そして集団的安全システム」に依拠することによって保障されるとする[28]。すなわち、欧州に見られる武装中立国が自衛のための戦闘力を保持しているのに対し、コスタリカは自衛のための戦闘力保持さえ放棄しているのであり、国際世論の監視と集団安全保障条約等によって国家の安全が保障されるというのである。これは現実には領土内での米国活動を黙認していたモンヘ政府が、国際社会に対して自国の民主性、反戦主義、平和性を想起させ、国際世論の注目を集める上で有効な公的宣伝であった。この「非武装中立」の概念は、コスタリカ社会に普及した反軍国主義とあいまって、非武装で反戦的な民主主義国家であるコスタリカが、「領土拡大主義」のニカラグアに脅かされているというイメージを国際世論に植えつけるのに十分であった[29]  

 

[28]
Ibid.,pp.20-21.  

 

[29]
Marc Edelman, “Back from the brink”, Report on the Americas , (NACLA) Vol.]\, No.6 (November / December 1985), p.40.  

 このように「積極的中立」に見られるイデオロギー的な閉鎖性と、「非武装中立」に見られる理想主義的な反軍国主義や外交的開放性の奇妙な結合が、コスタリカの永世中立の特徴である。これは、モンヘが「米国かニカラグアか」という外交上の二者択一に対する回答を拒絶した結果であって、ニカラグア革命以前の典型的な市民感情であり、外交の基礎であった三原則に立ち返ったことを意味している。「積極的中立」は西欧的価値観への信奉を表現したものであり、「非武装中立」には反軍国主義の影響が見られ、「永世中立」は冷戦に参加しない第三者という点で第三世界的意識を反映しているのである。このように、中立宣言は、伝統的な三原則を「中立」の名の下に成文化するという側面を持ち、外交的に「資本主義陣営の見方である」と同時に、「共産主義陣営や第三世界の敵ではない」ことを国際社会に知らしめるものであった。  

 

 このような中立の原則自体の特徴に加え、その宣言の中でモンヘがコスタリカ民衆に対して「中立」の正当性を強く訴えるために、中立精神を一貫して国民精神と結び付けようとする巧妙なレトリックを駆使している点も、大きな特徴として指摘できよう。例えば、モンヘは、大統領として正義、自由、民主主義、平和といった「祖国の歴史的遺産」を維持し、より豊かなものにしていく義務があると述べる等、彼の中立宣言がいかにもコスタリカの民主・平和的な国民文化からもたらされる当然の歴史的帰結であるかのような表現を多用している[30]。歴代大統領の演説を恣意的に引用しながら、コスタリカが独立以前から平和を望む国家であり、国民であったかのように描写しているのもそのためである。  

 

[30]
Luis Alberto Monge, La neutralidad de Costa Rica, op. cit., p.9.  

 特に、1949年の軍隊放棄について、モンヘは「我々は自発的に、そして一方的に非武装化を達成した唯一の国民なのだ」と述べ、これをコスタリカ国民の平和を示す最大の歴史的事実として描いている。そしてモンヘは、その延長線上にある「国民精神に根付いた平和への使命」に基づいて中立を宣言するのだと結論する[31]。このような中立のイメージが大衆メディアを通じて人々に伝えられ、人々の民主主義意識や平和国民意識を刺激したであろうことは、想像に難くない。ここには、モンヘが「中立」主義をもって国内に分立する諸勢力・団体を政治・社会的に結束しようとする意図が見られる。そのために「中立」をコスタリカ人の「国民性」と同一視する必要があったのだろう。

 

[31]
Ibid., pp.13-14, 16.

 また、モンヘは、宣言文の中で自分の提示した「中立」を憧れのスイスの中立のイメージと重ね合わせることによって、人々の支持を得ようと努力している。スイスの中立主義は、13世紀末から現在に至るまで、欧州の諸大国の狭間に位置するという特殊な政治・地理的条件に起因する独立維持のための政治外交手段としての側面と、多様な言語や文化を持つ国内の民族集団を統合するための内政的な側面との両面で、この国に最も適した政治的・社会的形態であり続けている。長い歴史を経て、スイスの中立は単に政治権力にとってのみならず、国内世論にとってもスイス国民アイデンティティを形作る重要な要素となったのである[32]。しかし、コスタリカの「中立」はこういった性格のものではなく、人々のナショナリズムに訴えかけることによって現実には極めて政治的な政策を国民文化であるかのように演出し、社会的に正当化する試みであった。

 

[32]
Jean F. Freymond, “ Neutrality and Security Policy as Components of the Swiss Model”. Swiss neutrality and security , Marko Milivojevic and Pierre Maurer (ed.), Oxford : Berg Publishers Limited, 1990, p.181.

 第二次大戦後の米ソ東西対立を政治的背景にしているという点では、むしろモンヘの中立政策はオーストリアやフィンランドのそれに類似しているといえる。  

 

 1955年に宣言されたオーストリアの中立は、第二次世界大戦後に米ソ英仏の4カ国軍によって国家が分割統治された苦い経験の中から生まれたものである。国内で東西両陣営がにらみ合う厳しい政治状況下において、民族独立派の政治家たちは、常にオーストリア国家の利益と国民の福祉を考慮しながら、優れた外交的手腕を発揮して独立を勝ち取ることに成功した。この冷戦の枠組みにとらわれず、国家の独立と主権を第一に考えるプラグマティックな外交が、オーストリアの中立の根本精神になっている[33]  

 

[33]
矢田俊隆「カール・レンナーとオーストリア現代史−一九四五年を中心に」、『成城法学』49号、1995101102頁。

 また、フィンランドは、スイスやオーストリア等と同じように思想・文化的に西側の一員であり、その経済組織に組み込まれているにもかかわらず、地政学的にソ連の安全にとって死活的重要性を持つ場所に位置している。そのため、この国は西側諸国との歴史的、文化的な類似性や価値観を前面に打ち出すことができず、感情を抜きにして計算された国益を基礎に自国の安全と独立を維持しなければならなかったのである。中立政策をとることは、東西両陣営からの政治的信頼を得るために最適であったのだ[34]  

 

[34]
マックス・ジャコブソン『フィンランドの知恵』、北詰洋一訳、サイマル出版会、1988123頁。

 しかし、オーストリアやフィンランドにとっての中立は、国民国家の独立と主権を回復、または維持するための必要不可欠な政治政策であったという点でコスタリカのものと大きく異なっている。もし、中立政策を実行しなければオーストリアは米ソ両軍によって引き裂かれ、フィンランドはソ連軍によって占領される危機に瀕していた。これに対して、コスタリカは、中立政策を実施しなければ国家の独立と主権が侵されるという差し迫った危機に直面していたわけではない。基本的にコスタリカの中立は、対外的には自国が中米紛争に関与していないことを示すものであり、対内的には反政府感情を抑え、反共産主義・反ニカラグア勢力と親ニカラグア勢力の衝突によって、社会の分裂化を防ぐための政治政策であった。そのため、モンヘは一方で反ニカラグア派を考慮に入れた「積極的中立」を謳い、他方で親ニカラグア派に向けて「非武装中立」を宣言してニカラグアと交戦しないことを示したのであった。すなわち、モンヘの中立宣言は、コスタリカ民衆の伝統や精神文化を具現化する政策ではなく、ニカラグア革命後の国内外における政治・経済・社会的動揺に対処し、その混乱を国民の名の下に再統合するために行われた極めて現実的な方策だったのである。  

 

 

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